https://drive.google.com/file/d/1RSlD0owj1AWIviYCP2CN_D-XYx3UfNIq/view?usp=drivesdk ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ 名高い書記官 それほど昔のことではないが、名高い名高い都市ブルゴスに、二人の裕福な貴族が住んでい た。一人はドン・ディエゴ・デ・カリアソ、もう一人はドン・ファン・デ・アベンダーニョという名であっ た。ドン・ディエゴには息子がおり、自分の名にちなんで名づけられた。ドン・ファンにはもう一人 の息子がおり、ドン・トマス・デ・アベンダーニョと名づけられた。この二人の若い紳士は、この物 語の主人公となるため、スペースと言葉の節約のため、単にカリアソとアベンダーニョと呼ぶこと にする。カリアッソが13歳か、もう少し経った頃、悪戯心に駆り立てられ、両親からひどい仕打ち を受けたわけでもなく、純粋に楽しみと気まぐれから、少年たちの言葉を借りれば「両親の家を引 き裂き、世に出た」。自由な生活にすっかり満足していた彼は、それに伴う不便や悲惨さの中に あっても、父の家の豊かさを懐かしむことはなく、歩くのに疲れることもなく、寒さに苛まれること も、暑さに腹を立てることもなかった。一年のどの季節も、彼にとって甘く穏やかな春のように感じ られた。干し草の山でもマットレスの上と同じくらい心地よく眠れ、宿屋の干し草置き場に潜り込 むのも、まるでオランダのシーツの間に横たわっているかのように楽しかった。そしてついに、彼 は悪戯屋の仕事で大成功を収め、大学で有名なアルファラッシュの男に講義をする機会を得た。 出生から帰国までの3年間、彼はマドリードでタバを弾き、トレドのベンティリャスでレントイをし、 セビリアのバルビカンでプレサとピンタを徒歩で踊る技術を習得した。こうした生活に伴う悲惨さと 苦難にもかかわらず、カリアソは自らの生き方において王子の風格を漂わせていた。散弾銃の 射程圏内で見れば、あらゆる点で彼が高潔な生まれであることが分かる。同志に対して寛大で 親切だったからだ。バッカスの庵には滅多に行かず、ワインも飲んだが、ごく少量で、飲みすぎる とたちまち朱と黄土で白く塗られたような顔色になる不幸な人々、いわゆる「不幸な人々」の仲間 入りを果たすことは決してできなかった。要...